認知症のある方の生活障害やBPSDに対して
多くの人が下の図のように誤解していると思います。
生活障害やBPSDというのは、実は、表面的な表れです。
何の表れかというと、
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動を含めて)が錯綜して現れているのです。
ですが、多くの場合に、錯綜している現実を観察せずに
見た目の表れにすぎない、生活障害やBPSDだけを切り取って見て
「帰宅要求・徘徊・暴言・暴力」などとレッテルを貼って
「どうしたら(それらが)無くなるのか」と悩んでいるのです。
残念なことに
このような思考過程は現場あるあるです。
帰宅要求のある方に対しては
「タオルを畳ませる」「飲食を提供する」「気持ちをそらせる」
などの対応が効果的とされています。
必死になって帰宅要求している認知症のある方に向き合うことなく
その場をしのぐ対応をすることで
帰宅要求がなくなったという経験が蓄積されてきたからだと考えています。
ある精神科医は
「微笑みながら徘徊している人はいない」「みんな必死になって徘徊している」
と言いましたが
認知症のある方の必死な気持ちへの対応をしなくても良いのでしょうか?
「その人に寄り添ったケア」というケアの理念と
真逆の対応をすることへ葛藤を覚えないのでしょうか?
効果があるというのは、誰に対しての効果なのでしょうか?
認知症のある方の生活障害やBPSDというカタチには
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動も含めて)が錯綜して反映されています。
生活障害やBPSDは単に能力が低下したから起こっているわけではありません。
本来であれば、
錯綜した現実から、症状や障害・能力・特性・環境を解きほぐすことが求められます。
援助の視点を明確にした上で観察すると
認知症のある方に何が起こっているのかを洞察することができます。
何が起こっているのかを洞察できれば
どうしたら良いのか、どうしてはいけないのかは、自然と浮かび上がってきます。
その判断をカタチにして見せるためには的確な技術が必要です。
そうして初めて、認知症のある方の生活障害やBPSDという不合理な言動に対して
行動変容を促すことが可能となるのです。
ところが
まず、最初の生活障害やBPSDが起こっている場面そのものを観察しようとする人は
とても少ないのが現実です。
観察しようとしても
「認知症のある方の困りごとを援助しよう」という意図ではなく
「表面的に職員にとっての困りごとをなくそう」という意図を持って
観察してしまう人はとても多いものです。
意図のベクトルは真逆です。
私たちは意図に基づいた観察をしているので、
職員中心の意図であれば得られる洞察結果は職員中心のものにしかなりません。
援助(認知症のある方中心)と強制・支配(職員中心)は
コインの裏表のようなもので、
援助であれば強制・支配にはなり得ず
強制・支配であれば援助にはなり得ない。
そして、裏表は容易に入れ替わってしまいがちなものです。
よく言われる言葉のひとつに
「時間があればそうしたいけど時間がないから仕方ないのよ」
という言葉があります。
確かに私たちの手は2本しかありません。
今はどの施設のどの職種の人もみんな忙しい。
時間に余裕をもって働けている人の方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
確かに忙しくて気持ちがあっても実際にはできないことも多々あるでしょう。
ですが、本当に時間さえあれば適切にできるのでしょうか?
私が過去幾多の人たちと働いてきましたが
時間を言い訳にする人で時間があった時に適切に関与しようとしている人に
あったことがありません。
忙しくてもちゃんとしようとする人はするし、しない人はしないのです。
忙しい以外にもっと根本的なところでできない理由があるのです。
そして、多くの人は実は無意識には自分ができないことをわかっている。
わかっているからこそ、多忙を言い訳に、防衛機制として否認し合理化しています。
仮に
援助の視点を明確にしながら観察しようとしても
知識がなければ(概念の本質を理解していなければ)
的確に洞察することは難しいものです。
的確に洞察できなければ的確な判断ができようはずもありません。
的確な判断ができたとしても
その判断をカタチにして見せられる技術が伴わなければ机上の空論となってしまいます。
援助の視点をぶらさないようにすればするほど
いくつもの段階で自分自身のできなさに直面させられることになるのです。
これは本当に辛いことです。
その辛さを経てようやく行動変容を促すことができる段階に達することができます。
本当に認知症のある方の行動変容を促すことができる人は
そこに至る過程での辛さを嫌というほど体験しています。
耳障りの良いスローガンを唱えるだけでは
行動変容を促すことなどできようはずがないことを身に染みてわかっています。
抽象論や総論を語りたがったり
スローガンを連呼する人を私が信用できない理由がそこにあります。
そして、その段階に達してもなお、いえ、その段階に達したからこそ
常に援助と強制・支配がどんなに入れ替わりやすいのか
日々の場面場面で自戒し自制することの厳しさを思い知らされるものです。
一部では
認知症のある方への対応はかなり蓄積されてきたと言われているようですが
私はとんでもないことだと強く感じています。
もう一度、援助の視点・原点に立ち返って組み立て直さないと
本当に真摯な人が辛くなるだけで現状は一向に改善されず
理念と実践の乖離や言行不一致なことに疑問を抱けない人の声だけが大きくなり
結果として、認知症のある方とご家族の余分な困難がいつまで経っても改善されないようなことになりはしないかと心配しています。
そして
私だって、まだまだではありますが
今、本当に必要とされている理念と実践を結びつける思考過程を
ある程度は言語化することができるようになったので、
このサイトや講演や執筆活動を通して公開・伝達しています。
私には地位も名声もありませんが
本質を追求しようとする姿勢は持っています。
この広い世界のどこかに必ずいるはずの受け止めてくれる人に向かって声をあげています。
どうぞこの声が届きますように。
そして届けるに値する実践を私が為し続け言葉を紡ぎ続けることができますように。
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