Act.ができそうなのに拒否された時に
私がどうしているかというと。。。
まず、
「無理に誘ってごめんなさい。」
「また機会があったら」
「もし気が向くことがあったらその時にでも」
と言ってすぐに引き下がります。
でも、
拒否されてそれでおしまい。というわけではなくて
認知症のある方が拒否するには拒否するだけの必然があるので、そこを考えます。
多くの場合に
認知症のある方に私たちが出会った時点で
認知症のある方はすでにたくさんの失敗体験・喪失体験を重ねてきています。
同時に、日常生活においても失敗体験や混乱・不安にたびたび遭遇し続けています。
そんな中で
かつて得意だったことでも、やったことのないことでも
「やってみませんか?」と提示されたことに対して
不安に思ったり、心配な気持ちになるのは当然のことだと思います。
もしも、グループの中でAct.を提供する場であれば
代わりに「これならできる!」と確信していただけるものを提示します。
私は今、重度の認知症のある方を対象として働いているので
体操と音楽を評価の入り口として設定しています。
体操はラジオ体操第一とみんなの体操
音楽は懐メロの視聴です。
その時点で
この方は、こういう特性があるし、こういう能力があるし、こういう困難には
こういった場面設定で工夫しようという私の側の判断があって
あるAct.を第一候補として選択しています。
詳細は「Activityの選択・工夫あれこれ」をご参照ください。
「これならできる!」と確信していただけるものを選択できるようになるのは
私たちの側の責務だと考えています。
ここは、特性に沿ったものを選択できるのが一番ですが
仮に、特性に沿ったものの判断ができず、能力に沿って選択したとしても
ここできちんと遂行の仕方を評価しておくことが重要です。
多くの場合に、「(認知症でも)できることがあった」ということで
職員の側が安心してしまい、それ以上の評価をしないことが多々あります。
だから往々にして、認知症のある方に塗り絵を提供してそれでよし
となる場合が多いのではないでしょうか。
目の前にいる方の適切なAct.選択の入口として
塗り絵を提供するのは良いと思いますが、
塗り絵なら座ってくれる。塗り絵ならやってくれる。
という安易な気持ちで漫然と塗り絵を提供するのはどうかと思います。
塗り絵が適切な方もそうでない方もいるからです。
塗り絵が適切な方は、
表現活動を楽しまれる方です。
色の塗り方をご自身で工夫しようという気持ちのある方
工夫をその方なりに見出し、実践する方です。
塗り絵が適切でない方は、
ただ、枠の中を塗りつぶすことが遂行目的となってしまいます。
もちろん、そのような遂行の仕方が間違いというわけではありません。
でも、「色を塗る=楽しむ」ではなくて「色を塗る=塗ることそのものが目的」
という場合には、他のAct.の方が適切だったりします。
Activityの選択というのは
良し悪し ではなくて適不適 なのです。
ましてや、可否ではありません。
作業療法の原語であるOccupy
その方がどんな風にOccupyしてきたのか
理解し、受け止め、今も変わらないということを
言葉ではなくActivityというカタチで媒介し伝え合うことができるから
Occupational Therapy なのです。
ちょっと脱線してしまいましたが
話を元に戻して
第一候補のAct.でなくても
遂行の仕方をきちんと観察・洞察することができれば
自分の判断の確認ができます。
認知症のある方も「できた!」「大丈夫だった!」という体験を積み重ねることで
やってみようかな?という気持ちが芽生えてきます。
そのサインを見逃さないことです。
チラチラと見ていたり
やたらと眼が合うような時は、チャンスです。
並行集団の良さは、こういうところにあります。
私はずっと課題集団と並行集団を使い分けてきています。
いろいろな人がいろいろなことをやっている
同じ時間と場を共有はしているけれど、することは人それぞれ異なる
というのが並行集団です。
いろんな人がいるんだな
いろんなことをやるんだな
ということを体験を通して実感できる場がある
ということを大切にしています。
その時を逃さずに声をかけることと
その時に失敗させないように工程を説明することがポイントとなります。
工程を説明する時には「言葉」と「実演という視覚的説明」を
意識して使い分けています。
私も若い時には、実演しながら「ここをこうしてこうやって」という説明をしていたことがありました。。。
ある時、ハッと気がついて以来そのような説明の仕方はやめています。
「ここをこうしてこうやって」
という説明は構成障害のある方には、かえってわかりにくい逆効果になってしまう説明です。
そして、実は、説明する本人が「ここをこうしてこうやって」という内容を
曖昧にしか理解していないという側面があります。
「ここ」がどこなのか
「こうして」とはどうすることなのか
「こうやって」とはどうすることなのか
明確化できていないから、なんとなくやっているから
「こう」としか言えないのです。
実演する過程で
「何を」「どのように」見ていただくのか
言葉にする時には
「何を」言うのか
ということを明確にして伝えています。
このあたりが曖昧になっている人って結構いるものです。
そのために認知症のある方が混乱している。
でも自分の曖昧さには気がつけないから
何が起こっているのかわからない
だから自己修正が効かない
だから認知症のある方も拒否してしまう
でも自覚がないから、それらすべてを「認知症のせい」にされてしまう
なんということでしょうか。。。
逆に言えば
私たちが自覚的になれば、今すぐに誰にでも修正できることです。
新たに論文を読んだり
研修に出かけたりせずとも
お金も時間もかけずに、自身の言動に明敏になることによってできることです。
でもこういうことこそが、一番手を抜かれるところなんですよね。。。
話があちこちに飛んでしまいましたが
まとめると。。。
認知症のある方がAct.をできそうなのに拒否する時には
1)これならできる!と確信してもらえそうなAct.を次善の策として提案する
2)拒否なく応じてもらえたAct.の遂行の仕方を観察・洞察する
3)導入のタイミングを見逃さない
4)導入の仕方に注意する
もうひとつは
マンツーマンでの対応の仕方で
認知症のある方に話を聞く というものです。
これは次の記事でご説明します。
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