浮かび上がる一本道

 

 
認知症のある方が
良くなっていくのは
その方それぞれ固有の一本道を通っていくと感じています。

食事介助にしても
BPSDや生活障害への対応の工夫にしても
Activityの選択にしても
 
その一本道は、考えるものではなくて
自然と浮かび上がってくるもの

自然と浮かび上がってこない時には
その方のことがよく把握できていない時だから
どうしたら良いのか考えるのではなくて
まずは、情報収集から始める
日々の暮らしぶりをきちんと観察することから始める

その方の障害と特性と能力が分かれば
自然と今何が起こっているのかがわかる
だから、どうしたら良いのかが浮かび上がってきます。

どうしたら良いのかと考えるというのは、私たちの頭の中の作業なんです。
観察するという行為は、私たちが認知症のある方から教えてもらうという行為で
答えは認知症のある方の言動の中にあります。
全然違う。

多くの人は困った時に、考えるけど観察が足りない

語弊がないように正確に言うと
観察が大雑把で
科学的に客観的に観察するよりも先に思い込みの判断が先にある
そういう人の方が圧倒的に多い

だから
「〇〇という状態の人がいるんですけど、どうしたら良いでしょうか?」
という質問が蔓延るんだと思う

どうしたら良いのか、職員に対して質問するんじゃなくて
目の前にいる認知症のある方に尋ねなくちゃ
言葉で尋ねる時には、尋ね方に工夫して尋ねなくちゃ
言葉にならないもう一つの行動という言葉でも尋ねなくちゃ

現場あるあるなのは
尋ね方が不適切だから答えが返ってこないというケース

最初から何もかも全てがわかるわけじゃない
臨床とは、観察するという行為の積み重ねを通じて
より深くより広くより明確にわかるようになっていく過程

知識を広く深く習得していれば
同じ場面を観ていても得られる情報の量と質と的確さが増してくる

観察・洞察力を磨けば
フッと答えが先に浮かんでくることもある
その的確さに自分ながら驚くこともある

  ある小説の主人公の言葉に
  「カンというのは無意識下での論理的思考の発露」
  という言葉があって、まさしく!と膝を打ったものです

そんな時にも
あぁ良かったで終わらせずに
何がどう良かったのか、良かった意味を
抽象化して言語化する努力を重ねる

そうすると
経験が経験として蓄積していくから
一番の修行は、目の前の対象者の方への対応ってことになるんだよね
すると、また、経験の応用の意味がわかるという。。。
華厳経の縁起の図みたいになる。。。

自分の中にそういった眼がなければ
目の前にいる方の言動を見ることはできても観察はできない

「ためこんで飲み込んでくれない」
「すぐ怒る」
「何回も呼ばれる」
「身体が硬くてオムツ交換が大変」
「手を硬く握り込んで爪が食い込んでしまう」

確かにそうなんだけど
これってプロとしての観察?
これだったら親戚のおじさんおばさんでも言える(見える)ことじゃん

その時その場のその関係性の中で
全身を心身ともに総合的に観察できるから
何が起こっているのか洞察できて
どうしたら良いのかが一本道のように自然と浮かび上がってくる

だから良くなる

重度の認知症のある方でも変わる

それは
認知症のある方その方の能力の発揮であり
人間の脳の働きの可塑性の素晴らしさでもある

本来の作業療法は
生命への賛歌、応援歌なんだと思っています


 

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