「歩かないと歩けなくなっちゃうから」
歩かせる。
「食べないと栄養不足になっちゃうから」
「飲まないと脱水になっちゃうから」
食べさせる
「何もしないと認知症が進行しちゃうから」
折り紙や塗り絵をさせる。
その意図に悪気があるわけではないのはわかりますが
その方にとっての、歩かない必然・食べない飲まない必然・廃用や低活動の必然を考えることなく
表面的に歩かせる、食べさせる飲ませる、何かをやらせる
という対応は、問題の先送りにしかならないだけでなく
かえって逆効果になってしまいます。
大昔になりますが
膝蓋骨の亀裂骨折をした認知症のある方に対して
「歩かないと歩けなくなっちゃうから歩かせるように」
という指示が出たようで
痛いから嫌!(当然だと思いました)と大声を出すようになり。。。
という方に遭遇したことがあります。
言語的疎通がちゃんと取れる方でしたから
「痛みが良くなるまでは、骨折していない足の筋力が落ちないように
リハビリをしましょう。
歩く練習は痛みが軽くなってから始めましょう。」
で、ちゃんと歩けるようになったという方がいました。
さすがにここまでのケースは今はないでしょうけれど
「飲まないと脱水になっちゃうからちゃんと飲んで!」
ととにかく飲ませることが最優先になってしまう
その結果、その方の本来の食べるチカラが低下してしまう。。。というケースは
まだまだ多いように思います。
構成障害や遂行機能障害のある認知症の方に対して
何かを作るというActivityは非常に難しいものですが
「刺激がないと病状が進行してしまうから」
と折り紙や紙箱作りをやらせ、その場では見た目活動的に見えても
内心の不安感や喪失感・失敗体験を強めてしまう
ということも結構あるのではないでしょうか?
無理矢理歩かせて、痛みを生じさせたり
無理矢理食べさせ飲ませて、口腔器官の協調性を低下させてしまったり
無理矢理何かをやらせて、職員の頭が対象者の手足を動かさせるだけになったり
それって
誰のためなんでしょう?
まずは
歩きたくない、食べたり飲んだりしたくない、何もやりたくない
と言うからには、必ずその方にとっての何らかの必然があります。
(原因ではなくて必然です)
そこを聴いてみましょう。
言葉でも
行動というもう一つの言葉でも
私は呪いの言葉を使いません。
もしも
歩けなくなった時に
食べたり飲んだりできなくなった時に
何もできなくなった時に
「あの時やらなかったから今がこんななんだ」
と感じて自身を責めるようなことにはなってほしくないからです。
歩けなくなっても
食べたり飲んだりしなくても
何もできなくなったとしても
あなたはあなたで変わらない
でも
歩けないよりは歩けた方が
食べたり飲んだりできた方が
何かできた方が
今よりもっといいと思っていただけるような体験を提供できるようになることを考えています。
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